昭和四十五年六月三日 夜の御理解
これは武内先生のところの二番目のかずのりさんが手紙を【 】その手紙を読ませてもらいます。どう皆さん感じられるだろう。
「拝啓、ここ三保は天女が降りた所として有名な風光明媚の地で、もう気の早い人達が海水着姿で水浴びを楽しむ季節到来です。」三保の松原のある所ですね。天女が舞い降りたという伝説のある所です。「合楽では、日に日に世のお役に立つ為の信心が進んで行っている事と思います。私の方、毎日毎日私でも分かるようなおかげを頂いていながら、そのお礼さえ出来ないで相済みません。四月中何やかやと多忙な上に下宿まで変わらねばならなかったのですが、とうとう自分では見つけれず、一番頼りにしていなかった人が一番最適の下宿を探してくれた次第でした。本当に何も出来ない私が、彼は頼りになるならないなどといったような偉そぶった心を持っていた事を深く反省する材料を神様が与えて下さったよえな気がしました。それから就職の方も、二月二十七日に佐世保重工から内定の通知が参りまして、そちらの方も有り難いおかげを頂きました。本当に親先生、充実した毎日を送らせて頂き有り難うございます」と。まあ、いうならば合楽の次の信心を担う人達ですね。その人達が日参りお参りが出来なくても、勿論今は在学中ですから。それでも私のような者でもおかげ、と思わなければおられない程しのおかげの中にあるという事ですね。いわゆるおかげをおかげとキャッチしておる事。この中を素朴というか、まあ大学生にしては少し幼稚なというか、そういう表現の中に何とも知れん、いい子を持って武内先生は幸せだなといったようなものを感じますですね。
私共が信心させて頂いて、良い事を思い、良いものを見、良い事をさせて頂くと。そういう中から、例えば今朝の御理解の「よしあしの中を流るる清水かな」と。そういうような胸中、まあいうなら最高の胸中でしょうか。そういうところをひとつ本気で目指してもろうての信心にならなきゃなりません。それにはね、やはり今月の私の信心の焦点であるところの「仲良う楽しゅう有り難く」といったようなところをね、いよいよ「仲良う」とは「楽しゅう」とは「有り難う」とは、といったような事を本気で追求してね、私はそういう雰囲気の中に、又その雰囲気を作る事の努力、精進をさせて頂いてからの信心であり、修行でなからなければならん。今月はとりわけそのような感じが致しますですね。どうぞ。